相手を変えようとするのは相手への依存なのかもしれないということ
〜ピポブル第365回〜
どーも、こうたです(^ ^)
今回は相手を変えようとするのは相手への依存かもしれないということについて書いていこうと思います。
1 「君なら大丈夫だ」と思えるようにするということ
少し世の中が見えだすと自分がなんでも分かっているような錯覚を起こし、人を教育したくなることがあります。
かくいう私もこのようなブログを書いているので、その一人かもしれないと思っています。
親であったり先生であったり、人を教育する立場の人はよくよく気をつけなくてはならないところなのだと思います。
まず相手を「可哀想だ」と思う気持ちは、見下しているとも取れる場合があります。
悪いことをした生徒が停学になったり退学になった場合に、ついつい「可哀想に」と思う場合があると思います。
私個人的には停学になろうと退学になろうと、もろともせずに打破して人生を生きていくことはたくさんあると思っています。
ですから、どんな状況でも「君なら大丈夫」と思えるようにすることが大切なのかもしれません。
つまり、尊敬の念を忘れないということですね。
2 自分が思うよりも相手は立派であるということ
相手を変えようとするときに、「楽な人生を歩ませてあげたい」という保守的な考えが起きる時があります。
あるいは立派になるように進める場合もあります。
そういうときは、「楽な道(立派な道)を歩ませてあげた私は立派な人間だ」という勘違いを起こしやすいです。
自分が思うよりもずっと相手は強く大きな人間だと思う気持ちを忘れてはいけないような気がします。
相手へ依存していることに気づかずに勘違いしているかもしれないからです。
3 まとめ
相手を変えようとするのは相手を変えたことによって得られる満足感を得るためなのかもしれません。
つまり、変えたいと思う相手への依存なのかもしれません。
そのことに気づいて、相手が自分が思っている以上の存在だという認識を持つことが大切なのだと思います。
相手を尊重する気持ちを忘れずに暮らしたいものですね。
読んでいただきありがとうございました^ - ^
↓ランキングに参加していますのでクリックしていただけると嬉しいです。