『鬼の目にも涙』、悪人という役を演じるのは大変だということ
〜ピポブル第12回〜
どーも、こうたです(^ ^)
今回は鬼の目にも涙について書いていこうと思います
1 許容できないという感情は自分のことを嫌いになってしまう
『鬼の目にも涙』という言葉をご存知でしょうか?
冷酷かつ無慈悲な人でも、ときには哀れみや同情を感じて涙を流すという意味です
つまり、どんなに酷いように思われる人にも相手のことを思いやることはないわけではないということです
確かにどんなにひどい人にでも良心はあったはずですし、今だってあるはずです
今、周りに許容できない人がいたとしても、その人にも良心があることに気がつくと良いかもしれないということです
生き物には平等に寿命があります
悪人でも最後の瞬間に感謝をして涙を流すことがありますよね?
このときにこの人にも良心があるんだなとわかるかもしれません
だからこそ、今、許容できないと思っている人にも善の心が少しはあるのです
よく『どんな人間にも何か1つは良いところがある』という言葉があります
後悔しないための方法は許容できないと思っている人が生きているうちに許容するということです
例えばですが、許容できないと思っていた相手のことも、自分に何か良いことがあって機嫌が良い時には思い浮かばないのではないでしょうか?
つまり、自分自身に満足ができずに自分を許容できなくなっていたと言えます
このことからやはり自分のことを認めてあげることが良いのではないでしょうか?
なぜなら、結果が自分の望まないものになっても、努力や一生懸命に考えたことは無駄にはならないからです
自分に厳しい人は自分を褒めるのが難しいかもしれません
ですが自分を認めることで許せない相手のことも気にならなくなると思います
2 悪人という名の使命
『鬼のような人には役目がある』と私は思っています
この世に生まれてたときから悪人である人は少ないと考えることができます
悪人の人だって良心がある人間です
自分の弱さが露呈したのが犯罪だと言えますし、弱いからこそ誰かを責めたりしてしまうのですから、真に悪い人間はいないはずです
生きていく中で『自分の使命』というものを自分で決めていきますよね
その使命の1つに鬼のように振る舞うことがあると考えることもできます
もし世界が悪人がいない、善人だけの世界だったならばそこはもう天国だと思います
ですが、理不尽も何もない世界で一体何のために生きていることになるのか?と疑問に思う瞬間があります
理不尽があるからこそ、悪があるからこそ、そこから学ぶことが多くあって成長することができるのではないでしょうか?
理不尽によってうまくいかなかったこともあるかもしれませんが、それもいつか役に立つ時がくるような気がします
そして、そのような理不尽なことを与えるのが鬼のような人としての役目であり、使命なのかもしれません
鬼のような人がいるからこそ善人が輝き、悪人がいるからこそ成長できるのかもしれないということです
そう考えた時、『自分のために鬼の役をやってくれているんだな、頑張っているんだな』と感謝してみるという違った視点に立ってみるのも悪くはないと思います
最初の方で書きましたが、どんな鬼のような人でも最後は涙を流す瞬間があります
役目を完了した鬼のような人には感謝の気持ちをもっても良いかもしれませんね
3 まとめ
悪人の役を務めた鬼のような人に対しては感謝の気持ちを持っても良いと思います
そうすることで自分自身が大きく成長できるのではないでしょうか?
今回はここまでです
ここまで読んでいただきありがとうございました^ - ^
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